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能劇


本帖最后由 藍血 于 2011-10-9 17:07 编辑

这篇文章我都已经事先翻译过,请各位看看我哪里翻译错误,谢谢各位。

一、能剧

 あー疲れた。ソファーに横になってテレビをつける。
コメディアがくだらない話をしている。聞くとはなしに聞いていると、いつのまにやら笑いに引き込まれていく。そのうちに腹を抱えて笑いだす。笑いが納まると、あら不思議。すっかり疲れがとれていた。こんな経験をした人は多いと思います。

啊啊―好累。
横躺在沙发上打开电视,听著搞笑艺人说白痴的话,听著听著,不知道什么时候不自觉的笑了,就这样捧腹大笑了起来,停止笑以后,感到不可思议,疲劳全部被解除了,我想有这样子经验的人很多吧。

 笑いは私たちの心も体もほぐしてくれます。笑いのない人生ほどつまらないものはありません。

笑放松了我们的心灵、身体,没有笑的人生是很无聊的。

 よく日本人は無表情だとか、暗いとか、いろいろといわれていますが、日本人も笑うことが大好きな国民です。長い間笑いの文化を大事に育ててきました。

虽然日本人常常被说面无表情、阴沉,但是日本人是非常喜欢「笑」的国民。长时间重点培育「搞笑文化」。

 今日、漫才や落語が人気がありますが、もっとも古い喜劇的古典芸能に狂言があります。狂言はもともとお隣の中国から8世紀にわが国に伝えられて永い年月の間に磨かれ、14世紀頃完成したといわれています。狂言は当時のはなし言葉と扮装による滑稽な劇で、能ととともに演じられます。歌と舞を主体とした能は、華やかで落ち着いたもので、それだけに真面目でやや堅苦しさは否めません。そこで、能と能の間に息抜きの意味もあって面白おかしい、肩のこらないものをはさんで演じられてきました。それが、狂言です。

现在,虽然相声跟单口相声都很受欢迎,可是最早之前的喜剧古典艺能是狂言。据说狂言原本是从隔壁的中国在八世纪的时候传入我国,经过长时间的演变,大概在十四世纪左右成形。狂言以当时的口语及服装打扮演出,剧情滑稽可笑,多与能剧一同上演。能剧以歌舞为主,华丽而慎重。但我们不能否认,能剧也因此而有些太过严肃,难以亲近。於是,一种新奇好笑、让人放松的表演形式开始在两段能剧之间穿插演出,给观众休息的时间。这就是所谓的狂言。

 狂言は、舞台での芸を見てもらうものというより役者が舞台の上から観客にじかに話りかける芸で、役者の表現力が豊かであれば、言葉がわからなくても十分に観客に通じます。にもかかわらず、狂言は他の伝統芸能である歌舞伎、文楽、能より一歩遅れて海外に紹介されました。外国に紹介されたのは、30年ぐらい前です。

相对於那种让观众在台下欣赏表演者演艺的表演型式,狂言则是让演员直接在舞台上与观众交流。只要演出者的表现力够丰沛,就算听不懂台词,观众也能充分融入。话虽如此,狂言传至日本国外的时间,却比其他的传统艺能诸如歌舞伎、文乐、能剧等等都要缓慢。直到距今三十年前,才首次登上国外舞台。

 しかし最近、この古典芸能が日本人の笑いの原点として、アメリカで注目され始めました。先日NHKの国際放送で、コロンビア大学で狂言について博士論文を書いたアメリカ人の女子学生が興味深いことを言っていました。

但是最近,这个古典艺能作为日本人的笑话原点,开始在美国被受注目。前几天在 NHK 的国际广播中,在美国哥伦比亚大学的一位美国女学生,因为对能剧有相当大的兴趣而写了一篇有关能剧的博士论文。

 「欧米の演劇だと、善玉、悪玉がどこまでも鋭く対立して演技するのだけれど、狂言はそうじゃない。善人と悪人、主人と家来がどんなに喧嘩していても、劇が終わるとすぐにシェイクハンドして仲直りするような気がする」。

「虽然在欧美的演剧中,都会有正派和反派激烈对立的情节,但狂言却完全不同,不论是好人或坏人、主人和家臣,不管在戏中吵得多激烈,在演剧结束时都会马上握手言和」。

 日本人の本質をとらえた面白い見方だと思います。狂言では、争いごとを描く場合も、徹底的に相手をやっつけることはしません。喧嘩の後は、必ずめでたしめでたして終わるのです。このような世界を「和楽」と呼び、英語でいえば、まさしく「シェイクハンド」なのです。

我认为就是这点把日本人有趣的本质给抓住了。在狂言中,若是描述争执的场合,也不会彻底的击败对手。而在争执后,一定会以和好当作结束。而这样的世界被称之为「和乐」,用英文来说的话,就是「握手」。

 狂言の登場人物は、ちょっと抜けている殿様と家来が一人か二人。主役は殿様でなく、家来である太郎冠者です。太郎冠者は楽天的で、時には、ずるがしこく、機知に富んでいます。身分はあくまで殿様の命令をきく家来ですが、実は自分の思うように殿様を動かしているのです。

狂言的登场人物大致上有迟钝的殿下以及一两个家臣。不过主角并不是殿下,而是一位太郎冠者的家臣。太郎冠者是乐观的,有时候狡滑又有机智。虽然他的身分原本是要听从殿下命令的家臣,但是实际上却是要殿下依照自己的意思走。

 太郎冠者の生きざまから、封建社会の庶民が、上から圧力にもめげず、したたかに明るく生きていたことがうかがえます。

从太郎冠者身上能看到,封建社会时的平民,就算有上头给的压力也能够开朗的生活下去。

 日本人の心を理解するには、庶民の笑いのルーツである狂言をたくさん見るのが早道だと思います。狂言がもっと海外で普及して、理解されるようになれば、経済摩擦、文化摩擦も少なくなることでしょう。

我认为如果想要了解日本人的心,多看平民的快乐根源狂言是最快的捷径。如果狂言在国外更加普遍并被理解的话,或许经济及文化的冲突会越来越少。

能劇

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完治:いや、関口と三上と三人で会う約束してんだけどさ。