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关于可能态(見える、見られる)


两者的区别。
見える是自然而然地看到,而見られる是经过一番努力之后看得到。
这样理解对吗?全面吗?
另外,关于自动词的使役态和他动词,比如「集まらせる、集める」、「止まらせる、止める」、「流れさせる、流す」,又有什么不同呢?
关于日语「見える」と「見られる」の違い,转发一个日本人的文章,一看就明白。

问:「見える」と「見られる」はどちらも中国語では「看得见」「能看到」となるので、生徒には使い分けが難しい。どのように違いを説明すればいいでしょうか。

答:ここでは「見える」と「見られる」は、何かを見て目で感じる時に限定して取り上げます。まず、「見える」を使う例文を見てみましょう。

めがねをかけると、新聞の字がよく見えます。
これはめがねをかけることによって、字を見るという目の「機能」がよく働くようになったことを表しています。また、「目の前が一瞬見えなくなった」という場合も、何らかの原因で目の「機能」が一時的に働かなくなったことを表します。このように、目の「機能」を問題にする時には「見える」を使います。

次に、「見える」「見られる」どちらも使える場合を見てみましょう。

ここから海が見えます/見られます。
晴れると富士山が見えます/見られます。
これらの例文は、「見える」「見られる」のどちらも使うことができます。2.、3. は、「ここから」「晴れる」という条件を付加することによって、「見える状態」になることを表しています。ただし、両者のニュアンスは少し違います。「見える」は、意思に関わりなく対象が目に入ってくる状態だといえます。一方、「見られる」は、話者が「ここから」「晴れる」という条件を作為的にとらえ、可能性として「富士山を見ることができる」と判断したと考えられます。つまり、「見える」は自発的であり、「見られる」は可能性に重点が置かれています。

次の例文を見てください。

正月、日本では着物を着た女性の姿が見られます。
この文には「正月、日本」と条件がかなり限定されています。話者が作為的に条件を表し、その結果、そのような可能性や機会を持つことができる場合は、「見られる」のほうが自然です。逆にいうと、着物姿を見る条件として、正月や日本が欠かせないということです。しかし、正月や日本という条件をはずし、話者の眼前の様子を述べる場合は、「着物を着た女性の姿が見えます」と言っても不自然にはなりません。

さて、次のような誤用をよく目にします。

(×)街のいたるところにゴミが見えます。
これは自発的なニュアンスを持つ「見える」をそのまま用いたことによる誤用だと考えられます。また、発話意図から考えると「見られる」を用いてもしっくりきません。この文は、「いたるところ」を使っているように、ただ目で感じたことを述べたものではなく、観察をした結果、ゴミがたくさんある、汚いといった判断や心理面も関係するので、「目立つ」や「目につく」などが表現として適切です。

ところで、1. の「よく」は「くっきり」「はっきり」「きれいに」というような意味です。2.、3. に「よく」が付くとどうでしょうか。
「ここからは海がよく見えます」「晴れると富士山がよく見えます」、これらの場合も、1. と同様の意味となります。この時、「見られる」は使えません。

では、「見られる」に「よく」が付くとどうなるでしょうか。例えば、「正月、日本では着物を着た女性の姿がよく見られます」の場合、「よく」は「頻繁に」という意味になります。この時、「見える」は使えません。

「見える」と「見られる」は、中国語に置き換えて対応できる場合もありますが、両者を使い分けるには、日本語からのアプローチが大切になってきます。


谢谢各位解答
关于可能态(見える、見られる)

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 「知る権利」という言葉が日本で使われるようになったのは、1960年代に全国に高まった反公害地域闘争からであり、行政や企業が独占している情報を知ること抜きには、原因究明も責任の所在も明確にすることができなかったからである。この「知る権利」の要求は、1970年代には環境?教育?福祉などの市民運動や消費者運動に受け継がれていくことになる。