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纪念汶川大地震 NHK纪录片: 被封印的瞬间 解说词(上)

发表于 5 天前

纪念汶川大地震 NHK纪录片: 被封印的瞬间 解说词(上)

转眼汶川大地震已经四年了。在今天的纪念日里,送上NHK纪录片的相关解说词,以为纪念:
 (字幕:2009年5月12日 四川省 成都市)四川大地震発生から1年経った5月12日、四川省成都市の郊外に地震博物館が開館しました。博物館には被害の激しかった四川省の北川県や汶川県などで収集されたさまざまなものが展示されています。展示品のほとんどはふだんの暮らしの中で使う品ですが、その持ち主の多くは地震で亡くなったか、いまも行方不明のままです。
 (四川大地震博物館 館長 樊建川さん(51歳))「博物館は平和なところだと思われています。しかし、この博物館は観客の考え方を変える場所、救命の場所です。思想が変わるのです。この博物館は大地震を人々や国の記憶として残し、永遠に警鐘を鳴らし続けることが目的です。」
 (字幕:四川大地震 2008年5月12日午後2時28分発生 死者 68712人 行方不明者 17921人 損壊家屋 520万戸)
 泥にまみれたウェディング ドレス、記念写真の撮影の最中、地震が襲いました。崩れ落ちた校舎の中から見つかった筆箱、尋ね人の張り紙の数々、
 「お父さん、お母さん、早く帰ってきてください。」
 博物館がこれまでに収集したものはおよそ5万点、その一つ一つに、それぞれの人の暮らしがありました。

 タイトル:封印された瞬間 四川大地震博物館 遺品は物語る(前編)
 四川省成都市の郊外にある四川大地震博物館、中国では四川大地震のことを震源地の名をとって、汶川大地震と呼びます。地震が発生した5月12日とその後一ヶ月の間におきたことを伝えるコーナーです。床はガラス割りで、床下には震災直後に収集したものが雑多に置かれ、瓦礫の上を歩いているような気分に捉われます。
 倒壊したビルの内部の再現です。瓦礫はすべて被災地で集めたものです。崩れてきた建物に直撃された高級車、銀行の駐車場にあった現金輸送車、輸送に出発する直前の出来事でした。博物館はいまも収集品の整理を続けています。博物館は軍やK札の特別な許可を得て被害の最も激しかった地方にスタッフを送り、そこに残されたあらゆるものを収集しました。いまにも崩れ落ちそうな建物の中に入り、伝染病の恐怖と戦いながらの命がけの活動でした。5万点あまりの一つ一つに収集した場所と日付と記したシールを貼っていきます。博物館館長の樊建川さんは不動産業を営む四川省有数の実業家です。私財を投じて博物館を作りました。大地震が何をもたらしたのか、民衆の目で後世に伝えたかったといいます。被災地での収集にも自ら当たりました。
 (樊建川さん)「午後2時28分、穏やかな陽光の下に起きた災難、決して忘れられません。廃墟を歩いていると、8,9階建てのビルが完全に崩れていて、その上で物を探していると、言葉にできないほどの恐怖を感じました。足元には1000人あまりが埋っているかもしれません。そう思うと、歩けなくなってしまいました。」
 6月27日、蒸し暑かったその日、樊さんは軍のジープに乗せてもらい、被災地に向かいました。そのとき、池の淀みで泥まみれになった衣類と靴をみつけました。
 (樊さん)「このドレスは一番心に残った遺品です。ドレスを着ていた花嫁は人生でもっとも幸せな瞬間に大きな災難に会ってしまいました。」
 ピンクの布地に白いレース、花嫁が着るウエディング ドレスでした。美しい渓谷で結婚の記念写真を撮ってもらおうとしたそのとき、地震に襲われたのです。写真の撮影を担当したのは成都市から東へ40キロあまり離れた金堂県の写真館でした。写真館は町の目抜きどおりにありました。中国では結婚式の前、ウエディング ドレスなどを着てスタジオや景色の良いところで写真を撮り、立派なアルバムを作ります。
 (写真館店長 王輝さん)「新郎新婦は優しい人でした。この店でドレスを予約してくれ、楽しそうにスタッフとも話してました。」
 「ドレスを試着したときを覚えていますか?」
 (王輝)「覚えてますよ、とてもうれしそうでした。二人は一ヵ月後に結婚する予定でした。」
 新郎の実家に残されていたアルバム、写真は地震の二日前に撮影されたものです。二人はともに22歳、結婚し、日用品を売る小さな店を開くことにしていました。
 「あの日、彼女はこんなドレスを選びました。デザインも色もほぼ同じです。彼女はとても気に入って、試着するととてもきれいでした。」
 要らせたウエディングドレス、大きく破れ、二本だけが華やかだった元の姿をしのませます。ドレスはいつ脱げのちたのか、遺体は見つかっていません。撮影を担当していたカメラマンは大怪我を負いながらも、地震の二日後奇跡的に救出されていました。写真館の専属カメラマン、蒋懐漢さん(29歳)、蒋さんは命は取り留めたものの、左足の複雑骨折などで四ヶ月入院、いまもまだ満足に歩けません。
 (蒋懐漢さん)「その日はつり橋まで行き、撮影したら帰るつもりでした。つり橋に近づいたとき、地震が起きました。私は気を失いました。気がつくと、横になっていました。周りが戦争が始まり――ミサイルや砲弾が爆発したようにすべて煙でした。地震がおさまっても、新郎新婦はどこにもいない、人影はどこにも見当たりません」。
 新郎新婦は一瞬のうちに山からの土石流に押し流されてしまいました。そして、もう一人、撮影現場にいた蒋さんの恋人羅静さん(25歳)もなくなりました。羅静さんは写真館でメークを担当し、5月12日は現場に同行していました。
 (蒋懐漢さん)「私も投げ出され後を振り返ると、私の恋人が大きな石に押しつぶされていました。」
 蒋さんも大怪我を負いましたが、羅静さんのもとに何とかたどりつき、一晩中、声をかけ続けました。しかし、彼女の体は次第に冷たくなってゆきました。
 (蒋懐漢さん)「私は彼女に「誰か来てくれる、私がいるから恐くないよ」ち話し続けました。一晩中、彼女の顔をなで暖かめていました。でも、もう役に立たないとわかっていました。雨が降り始め寒くなりました。」
 震災から半年、蒋さんは三人が亡くなった場所を尋ねることにしました。蒋さんの助手の朱さんが同行してくれます。朱さんも大怪我を負いながら、助けを求めに行ってくれました。
 地震の前の撮影現場です。写真を撮影する華やかなカップルの姿がいつも見られました。蒋さんは恋人や新郎新婦がなくなった場所を訪ねたいとずっと願ってきました。道路はよくなったと聞いていたものの、車は現場まではとても入れません。半年ぶりの撮影現場です。周りの様子は全く変っていました。美しかった渓谷は土砂に埋まっていました。いま、二人はその上を歩いています。
 (蒋さん)「私の知っている渓谷ではありません。まるで見覚えのないところへ来てるようです。でも私の彼女もあの二人もここに眠っています。」
 遺体は見つかっていません。このあたりのどこかにきっと眠っているはずです。
 (蒋さん)「君にやっと会いに来たよ。もう半年も経ったね、いま、どうしているの?僕のところへ帰ってきて、君のことをずっと思っているよ、君と話がしたい、君はどうしてこんなに早く行ってしまったの?私だけを残して」
 山はあの日のことを忘れたかのように静まりかえっていました。
 地震から日がたつにつれ、写真館を訪れている人も少しずつ増えてきました。どんなドレスを着てどこで撮影したいか、写真館と相談します。蒋懐漢さんは地震の後、初めて写真館を尋ねました。人手を借りず、松葉杖もなしで、やっと外出できるようになりました。
 (蒋さん)「最近忙しいですか?」
 「まあまあです、今日は二組です。」
 「いいですね」
 地下のスタジオを久しぶりに見てみることにしました。この日も、一組の撮影が行われていました。地震の前のことがつい、この間のことのように思われます。蒋さんはいつの間にかカメラを手にしていました。誰もいないスタジオ、しかし、蒋さんにはみえます、5月十日の二人。なぜ、自分だけ残されたのか、
 (蒋さん)「私の彼女もあの二人も一緒に遭難しました。とても悲しいですが、耐えています。彼らも私たちが幸せになることをきっと願っています。明日からのことを考え、何とか生きて行きます。」


发表于 5 天前


 四川大地震博物館は完成を待たず、大地震特別展を始めました。地震発生からわずか一ヵ月後のことです。収集したものからとりあえず公開していこうという試みです。特別展の一角に設けられた北川県のコーナーです。

 「皆さん、安らかにお眠りください」。北川県は地震で壊滅的な打撃を受けました。瓦礫の山は北川県の県庁所在地、曲山鎮から運ばれてきたものです。北川県は山がちな地方で少数民族の羌族が多く暮らしています。地震から半年経った11月になっても被災者の暮らすテントが数多く並んでいます。北川県曲山鎮です。家屋の倒壊や伝染病の恐れがあるため、いまも厳重に封鎖され、誰も入ることを許されません。特別な取材許可を得、北川県宣伝部馮翔さんに案内してもらうことになりました。海外の取材班がこの封鎖地区に入るのは初めてのことです。曲山鎮は県庁などいくつもの役所や商業施設、学校などが集中するにぎやかな町でした。山間に広がる町は地震の起きた5月12日から何も手が付けられておらず、時が止まったかのようです。
 (北川県宣伝部副部長 馮翔さん)「北川県の中心のこの町には2万人あまり住んでいました。多くの人が巨大な石や家屋の下敷きになりました。」
 廃墟と化した町が延々と続いています。瓦礫の下には今も多くの遺体が眠っています。山から落ちてきた大きな石が道路を塞いでいました。どこまで行っても人影は全く見当たりません。
 「これは北川県の建設局。中には身障者連合会もありました。この建物で仕事をしていた人の多くは地震が起きると逃げる暇もなく亡くなりました。交通局の管理所です。免許証などを交付していました。地震当日、多くの人が来てましたが、みんな、亡くなりました。あれは、山から落ちてきた巨大な石です。山の下の中学校は全部埋まりました。」

 一本のビデオテープ、地震発生直後の曲山鎮を住民が撮影していました。崩れ落ちてくる建物からかろうじて逃げ出してきた人たちです。何が起きたのか、多くの人は呆然と立ち尽くしています。助けを求める人がいます。広場は避難してきた人たちで次第に埋まっていきます。
 無人の廃墟となった北川県曲山鎮です。崩れた建物の向こうから、突然、一人の男性が姿を現しました。
 「こんにちは、どこへ行くんですか?」
 「この先の仮設住宅に行くんです。」
 「封鎖されたこの街を通ってきたんですか?」
 「ええ、家にものをとりにいってました。朝5時に出たんです。」
 「他に道はないんですか?」
 「ええ、ほかはどこも通れなくなったんです。」
 「以前は?」
 「前はあった橋も崩れました。」
 自分の家から畑にはもう通りなくなりました。仮設住宅に暮らす家族に物を届けた後、出稼ぎに行くといいます。
 地震博物館は日常どこでも見かけるような品物を数多く集めています。住所の表示、縫いぐるみの人形、その一つ一つは地震の前の穏やかな生活の記録です。「平安店舗」、清潔で税金もきちんと納めている飲食店に北川県が与えたシールです。このシールだけ残し、多くの店が消えてしまいました。北川県の被災者が暮らす仮設住宅です。北川県から南東に70キロ、比較的被害の少なかった綿陽市に作られています。1800世帯、5000人がここで暮らしています。青い店頭屋根の店ができていました。北川、劉さんの煮込みの店、
 「博物館にあったものです。見たことありますか?」
 「ええ、規則を守り、皆に評判の良い店はこの「平安店舗」のシールがもらえました。でも私の店のシールはなくなり、暮らしからも平安はなくなりました。店も、家族も、財産もすべてのものがなくなりました。」
 店の主人、劉仁欽さん、地震の前は煮込みの店を三つ経営していました。しかし、地震ですべての店と店を任せていた次男、その孫、そして長男の嫁を失いました。劉さんは既に仕事から退き、隠居の身だったですが、店の煮込みをまた食べたいという住民の声に促され、この店を開きました。いまは仮設住宅で一人暮らしです。地震の起きた5月12日、劉さんは一人で釣に出かけていました。釣に行ったその日以来、次男とも孫とももう得なくなってしまいました。
 (劉仁欽)「私はいつも3時半ごろモアで釣をしますが、その日は釣れず、2時にはやめました。オートバイに乗って帰ろうと、3キロ走ったところで地震が起きました。後ろでドンという石の落ちる音が聞こえ、道は裂け、オートバイは壊れてしまいました。歩いて帰ろうとすると、通行止めになってしまいました。3日たってやっと帰るともうめちゃくちゃでした。」
 何もかも失い、一人になった劉さんは自分で働いて生きていかなければなりません。昔の店はすべてなくなってしまいましたが、煮込みの味は少しも変りません。毎日、多くの客は店にやってきます。劉さんは毎日市場に出かけ、肉や野菜を仕入れます。煮込みが売れきれる日のごろ、店を閉め、次の日の仕込みにかかります。70歳になって、また仕事を始めることになりました。
 「昔もここの煮込みを食べてたの?」
 「そう、とってもおいしいよ」
 「前の店のときから?」
 「この店は有名です。腕がいいんだ。」
 「味は変らない?」
 「同じだよ」
 劉さんを見て、おじいさん、無事だった、よかったと声をかけてくれる客もいます。「平安店舗」、何とか少しでも愉快に働いて、お金をため、また元のような店を開くことが劉さんの願いです。

 地震博物館がはじめた特別展、被災直後に収集したものが次々に公開されていきました。入場者が食い入るように見つめているのは子供たちの文房具です。地震が授業中に起きたことに加え、校舎が余りにももろかったため、多くの生徒が犠牲になりました。特に被害の激しかった北川県では、71あった幼稚園から高校まですべての校舎が倒壊しました。錆び付いた筆箱、北川県曲山鎮の小学校の跡から見つかりました。曲山小学校は綿陽市に作られた仮設校舎で授業を続けています。
 「先生、おはようございます。」
 「春が来ました とてもきれいです。みんな、何を見かけますか?」
 「緑の草です。黄梅の花です。」
 「どんな色ですか?」
 「黄色いです。」
 「いまは春です。鳥の声は私を酔わせます。花の香りは私を酔わせます。緑は生命の証、春は元気になります。」
 (曲山小学校教師 景雪蓮さん(32歳))景雪蓮先生です。曲山小学校では1024人の生徒のうち、389人が亡くなりました。景先生の4年生のクラスも21人の生徒が亡くなり、地震の前の二つのクラスを一つにしています。
 (景雪蓮)「地震後、子供たちは無表情で授業に身が入らず、ほかの事を考えているのがよくわかりました。大人と同じでいつも地震のことが悪夢のように浮かんでたんでしょう。でも、最近は良くなりました。ほとんどの子が以前の状態に戻りました。授業にも身が入り、宿題もでき、冗談まで出るようになりました。」
 「博物館にあった筆箱です。曲山小学校のものですか?」
 「これは私のクラスのものです。こんなに、錆びだらけになって、筆箱は残っても、子供たちはもういません。」
 景先生はいつの間にか話すのをやめ、筆箱のさびを落とし始めました。
 「私の息子もこんな筆箱を持っていました。校舎の跡から見つかり、いま、家においています。車の形をした筆箱です。」
 一人息子の翰墨君(7歳)、翰墨君の通う低学年用の校舎は景先生のいる本校とは少し離れたところにありました。曲山小学校の低学年用の校舎の跡です。校舎は裏山が崩れ、押し潰されてしまいました。ここで授業を受けていた翰墨君の暮らすの44人のうち、43人が亡くなりました。
 (景先生)「私は希望を持ち、必死に息子を探しに行きました。しかし、現場に着くと、愕然としました。息子の教室は瓦礫が山のようになっていました。人が生きているとはとても思えませんでした。自分の子はなぜそんなに運が悪いのか。他の子が遊んでるのを見ると自分の息子を思い出します。皆はあんなに楽しそうなのに、」
 景先生の夫は北川県の県庁所在地、曲山鎮を案内してくれた県宣伝部の馮翔さんでした。馮さんは5月12日、地震が起きるとすぐ息子の学校へ向かいました。そして、知人に曲山小学校はなくなってしまった、瓦礫の山になったと告げられました。昼は仕事に追われているので短い、では、夜は晴れしなく長いと馮さんは言います。
 (馮翔さん)「私はとてもはっきりした夢を見ました。息子とおばあさんが映画館にいると扉が開かなくなった。息子が「助けて」と電話してきたんです。私は鉄棒で映画館の扉をこじ開け、中に入ると誰もいない。息子が「お父さん、冗談だよ」と言って近づいてきて、私が手を差し伸べた瞬間いなくなったのです。」
 息子の翰墨君は絵を描くのがとても好きでした。翰墨君が描いたお父さん、そしてお母さんです。馮さんは息子のクラスのホームページを作り始めました。子供たち全員の写真を並べ、みんなが好きだったことや親の話しをのせたいと考えています。
 (馮翔さん)「ホームページのことを親はとても喜んでくれ、みんな、子供の写真を送ってきてくれました。ホームページは「キラキラ星」と名づけたいんです。星は子供たち、キラキラ光る星です。青い夜空で子供たちは地上の親を見つめ、親は天にいる子供を見ることができます。」
 青い夜空に瞬く星星、多くの子供たちが父や母の元から旅立ってゆきました。

 1月23日、封鎖の続いている曲山鎮のゲートの前に人が集まり始めました。1月26日からは日本の正月に当たる春節、この春節前の三日間に限って北川県の住民の立ち入りが許されることになったのです。跡形もなくなってしまった町、瓦礫の中にそれぞれの面影を求め、善行を備えます。街が封鎖された去年の5月25日以来、誰もこの町を尋ねることができませんでした。馮さんと景先生もこの日をずっと待っていました。5月12日の震災のあとも、余震や山崩れが続き、風景は全く変ってしまいました。翰墨君の通っていた小学校を探します。校舎の屋根を見つけました。翰墨君はこのどこかにきっといるはずです。
 (景さん)「お供えの服を燃やしましょう。他のものと一緒にね」
 「彼の靴はそこにおいて」
 「どこにいるの?どんなに探しても、お母さんはあなたに会えない。あの日、あなたは学校に行かなかったらよかったのに。あなたがいないと、お父さんんとお母さんは生きていけません。」
 1月25日、中国の大晦日、北川県の人たちが暮らす仮設住宅です。子供たち全員に大きな風船がプレゼントされました。大震災の中を生き延びた命です。子供たちはそれぞれの願いを風船に結びます。
 (字幕)「震災の子が頑張れますように」、「私の希望は家族が楽しく暮らせること」
 子供たちの願いがきっとかないますように
纪念汶川大地震 NHK纪录片: 被封印的瞬间 解说词(上)