NHK纪录片解说词 之《故宫至宝》 第三集 闇の中の色彩―唐三彩
故宮博物院に収蔵されている三彩馬、所謂唐三彩です。高さ77センチ、唐三彩は今から1300年前、唐の時代に作られました。褐色、緑、白、そして黒や青など、さまざまな色を使うため、唐三彩と呼ばれています。鮮やかな色彩に飾られた絢爛豪華な陶器です。
中国の陶磁器を代表する唐三彩、この唐三彩が世に知られるようになったのは今世紀のことです。それまでは、その存在すら知られていませんでした。
河南省の洛陽です。1905年、最後の王朝、清の末期のことです。鉄道の線路の工事中に、偶然ひとつの墓が発見されました。墓には極彩色の陶器が収められていました。陶器は北京の骨董会に持ち込まれ、一人の学者の目に止まりました。
「古明器図録」、この学者の残した図録です。この記録には世界のだれも知らない宝物を手にした興奮が綴られています。千年の眠りから目覚めたから唐三彩、唐三彩は主に墓を飾る道具として作られたものでした。
三彩駱駝、高さ88センチ、ラクダの体はガラス質の釉薬、釉薬で覆われています。この釉薬が千年もの間、土の中で唐三彩の美しさを守っていました。色とりどりの釉薬が織り成す華やかさは唐の時代だけ見られる特別なデザインです。
唐三彩は、唐の最盛期に生まれ、およそ百年の間、盛んに作られたのち消えてしまった幻の陶器でした。唐三彩はどのようにして生れ、なぜ消えたのでしょうか?
西暦618年、世界帝国唐が誕生しました。唐は遠く西域にまで領土を広げ、繁栄を謳歌しました。中国と西アジアを結ぶシルクロードは唐の軍事力に守られて多くの隊商で賑わっていました。この時代、さまさまな西域の文化が中国にもたらされました。唐の都長安があった陝西省の西安市です。当時長安は人口百万人に数え、世界最大の都市でした。町が西域の文化に染まり、明るく開放的な空気に包まれていました。
都の郊外に造営された華清池、唐の第六代玄宗皇帝は絶世の美女と歌われた楊貴妃を伴って、たびたびこの地を訪れました。二人は池に舟を浮かべ、西域の歌舞音楽に包まれながら、宴を繰り広げました。
玄宗皇帝の従妹、永泰公主の墓です。この壁画は唐の貴族たちの華やかな暮らしぶりをそのまま写していると言います。煌びやかな絹の衣装を纏った女性たち、宮廷にも西域のかおりがあふれていました。開放的な雰囲気の中で、外国の文化を受け入れ、新しい価値観が生まれました。女性たちの間では、胸元開いた服が流行し、ペルシアの化粧が人気を集めていました。女性の理想の姿も、それまでの細面から、福良とした顔立ちに代わりました。この時代、貴族たちがこようなかいし、墓に備えたものがありました。新しい唐の文化が生み出した陶器、唐三彩です。
文官俑、高さ73センチ、大きな人形や動物は墓を華やかに飾るために、欠かせないものです。釉薬は大胆に流しが消されています。白と緑の釉薬は、溶け合い、流れ落ちて、艶やかな色合いを見せています。衣装には釉薬がたっぷりとかけられていますが、手や顔は生地のままです。表情をきめ細かく表現するため、釉薬ではなく、鉱物の顔料であとから描いたのです。発掘当時は鮮やかな色が残っていましたが、顔料は光に弱く、色褪せてしまったといいます。
三彩馬、高さ66センチ、唐三彩には彫刻としても優れたものは少なくありません。低く嘶馬の表情は、まるで生きているかのように、細やかに映し出されています。首筋の白い模様は生地に蝋をぬり、白抜きしたものです。鞍は赤い顔料で直接絵付けされています。美しく着飾ったこの馬は死んだ主を乗せ、死後の世界へ導くためのものと考えられています。馬の背中には、花の装飾が施されています。型で作り貼り付けたものです。花の中に、一匹の蛙が見えます。蛙は遠い昔から伝わる不老不死のシンボルでした。
唐三彩は唐の最盛期に突然現れました。しかも生まれたときに、すでに高い芸術性を示していました。その独特の彩には中華文明の歴史が潜んでいます。
紀元前2世紀に築かれた漢の皇帝の陵墓です。1995年に、陝西省で発掘されました。漢は墓を厚く飾る厚葬の習慣が広がった時代でした。この墓にも夥しい数の副葬品が収められていました。土の兵士、兵馬俑も多数出土しています。皇帝の霊を守るこの衛兵の軍団です。当時人々は死後も現世と同じ世界があると信じていました。皇帝はあらゆるものを土で作り、墓の中に地上の世界を再現しようとしました。軍団の後方には兵士の食料となる家畜が並んでいます。動物の表面に釉薬は掛けられていません。色は鉱物の顔料で施されています。
漢の時代の豪族の墓から出土した土器です。人々は皇帝に倣い、土器を作り、墓におさめました。土器は豊かな暮らしの証でした。墓を飾る副葬品が大量に作られる中で、それまでにない焼き物が現れました。
漢の時代に作られた陶器です。表面はガラス質の釉薬、釉薬で覆われています。緑の色は釉薬に含まれる銅の成分が熱に反応して現れたものです。釉薬は世界でもエジプトと中華文明だけが生み出した画期的な技術でした。
同じく漢代の陶器、鉛釉陶犬です。釉薬は緑と褐色で染め分けています。褐色は釉薬の中の鉄分が発色したものです。今から2000年前、すでに唐三彩の二つの色が生まれていました。しかし、当時はまだ釉薬の純度が低く、色は褐色か緑しか焼きあがりませんでした。
青緑釉四系蓮弁紋罐。六世紀、遊牧民が支配する河北の地で、純度を高める技術が開発され、透明の釉薬が生まれました。陶工は生地を白く化粧することで、白を表現しました。白は遊牧民の尊ぶ色でした。このときすでに唐三彩の色と技術がほぼ出揃っていました。七世紀半ば、唐がシルクロードを支配する直後、唐三彩の登場に纏わる重要な事件が起こりました。西アジアの大国サセン朝ペルシャーが滅亡し、王族たちが大挙して長安に逃れてきたのです。
(字幕:スレーンの妻 ママ―シュの墓誌)これは都長安で亡くなったペルシャー王族の墓誌です。墓誌にはペルシャー文字と漢字が刻まれています。王族たちは金や銀、あるいはガラスの器などを唐にもたらしました。その中に都の人々の目を瞠らせた工芸品があります。八弁花紋藍琉璃盤、ペルシャーから唐にもたらされた青いガラスです。この青は、コバルトという金属の色です。当時中国にはコバルトがなかったと言われています。ペルシャーの王族が長安に来てほどなく、唐三彩が誕生しました。
三彩加藍灯台、ペルシャーの藍を得て、中国の陶器は絢爛たる色どりの世界を作りあげました。漢の時代広く見られた褐色と緑、この伝統の色に新しい時代の色が加えられました。六世紀、華北の地で生まれた遊牧民の白、そして七世紀ペルシャーからもたらせたコバルトの青。唐三彩の鮮やかな色どりは多くの民族の多様な文化が溶け合って生まれたものでした。
洛陽にある唐三彩の工場です。今も昔ながらの技法で土産物の唐三彩が作られています。七世紀後半に生み出された唐三彩は西域のかおりに包まれていました。唐の時代、ペルシャーからもたらせるコバルトは貴重な材料でした。これはコバルトの釉薬です。焼き上げると鮮やかな青に変わります。西域の文化に憧れていた貴族たちは青い唐三彩を殊のほか好んだと言われています。
八世紀の初め、唐三彩は一世を風靡し、おびただしい数が作られました。しかし、この唐三彩を手に入れることができたのは貴族をはじめとする特権階級の人たちだけでした。唐三彩の生産は国家によってきびしく管理され、墓に収める数も身分ごとに定められていたといいます。
唐の最盛期、唐三彩は貴族や官僚のためにだけ作られていたのです。しかし、八世紀の半ばに起きた一つの事件を界に唐三彩は忽然と姿を消すことになります。
三彩天王増長天、高さ1.2メートル、克明に映し出された鎧や体は色とりどりの釉薬で輝いています。成熟した唐の文化の高さを物語るものです。しかし、長く続いた繁栄の中で、貴族や官僚は遊興に明け暮れ、政治への関心を失ってきました。地方では、辺境の地をまもる節度使が力を蓄えていました
西暦755年、西域の地をひく節度使安緑山が謀反を起こしました。反乱軍の数は15万、安緑山は瞬く間に洛陽を通し、都長安に攻め上りました。唐王朝にはすでに安緑山と戦うだけの力はありませんでした。玄宗皇帝は都を逃れ、長安は呆気なく陥落しました。この反乱を堺に、唐の権威は失墜、唐は西域の版図を失い、世界帝国は崩壊しました。シルクロードは廃れ、西域への憧れも色褪せていきました。国際都市長安は見る影もなく荒れ果てていました。貴族にはもはや墓を厚く飾る余裕はなく、唐三彩の生産は急激に落ち込みました。シルクロードの繁栄の中で出現した唐三彩は世界帝国の終焉とともに、消えていたのです。
北京最大の骨董街琉璃廠です。今世紀初め、洛陽の墓から発見された唐三彩はここ琉璃廠に持ち込まれ、再び世に現れました。最後の王朝、清の末期、中国は混乱を極めていました。それでも、唐三彩発見のニュースは世界を駆け巡る。各国の博物館や収集家が競って買い求めたといいます。
千年の時を超え、現代に蘇った唐三彩、長年、闇の世界に閉ざされていても、唐三彩の美しい輝きが失われることはありませんでした。
漢民族の伝統の色、褐色と緑、遊牧民が尊んだ白、西アジアからもたらされた青、それぞれの色が個性を競い合うことで生み出された絢爛たる美の世界、それは唐王朝が築きあげた民族融和の証でもありました。
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